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第65回 マドロス陽一の写真便り その15 基本 と いま を考える。


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僕はカメラマンのマドロス陽一こと長野陽一と申します。この度、5冊目の新刊『長野陽一の美味しいポートレイト』(HeHe) という料理の写真集を出版します。その中にはku:nelで撮り続けてきた料理写真もたくさん掲載されています。それらは美味しさだけではなく、料理を通して取材対象者の暮らしやストーリーを伝える写真たちです。島々のポートレイトを撮るように料理も撮り続けてきました。そして料理写真はポートレイトだと考えました。それを“美味しいポートレイト”と名付けます。ここでは旅した島で見たこと感じたことや、写真の話をしたいと思っています。

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第65回
マドロス陽一の写真便りその15
基本 と いま を考える。

モノクロ写真はよく写真の基本だと言われる。そのとおりだと思っている。被写体の一番明るい部分から最も暗い部分までのグラデーション、すなわち階調を表現するために光を見極めることが求められる。カメラやレンズ、フィルムや印画紙を選択し、撮影時にはレンズの絞りやカメラのシャッタースピード、露出を決定し、撮影後に現像方法や暗室でのプリント技術を操り、美しいモノクロプリントを作る技術を作家は知っている。光の中の白、影の中の黒、その世界を表現することがモノクロ写真の面白さと言える。

僕は光を見ることを美術大学の受験の時、石膏デッサンで学んだ。石膏デッサンは石膏像の形を描くだけではない。白い石膏像の影を描いていくことで形や質感、量感などを表す。木炭の淡い調子を木炭紙に定着させていく緻密な作業だ。予備校の頃、消しゴム代わりの食パンをほおばりながら、木炭で真っ黒になった手で一日中石膏像を描いていた。絵と写真で話が違いそうだが、光と影を見るということにおいては同じだ。

普段はカラーで撮影している。ネガカラーフィルムで撮影してカラー印画紙に焼き付けるネガカラープリントだ。昔の家族アルバムに貼ってある写真と同じ方法である。モノクロ写真で基本を学んだ後、そのネガカラープリントをかれこれ20年も続けている。その理由は僕が写真をはじめた頃にネガカラープリントが流行っていたからだ。当時はHIROMIXなど女性写真家がプライベートのように撮る写真が雑誌や音楽媒体などで数多く掲載され、ガーリーフォトという名の写真ブームを巻き起こした。従来のように露出を計り、時間をかけて撮影する職人的な撮影方法よりも、撮りたい時にシャッターが押せる簡単で便利なカメラやフィルムの開発が盛んだった。それが押せば写る「写ルンです」「コニカビッグミニ」「ポラロイドカメラ」「チェキ」などのカメラで、写真はより身近なものになった。進化は常に簡単で便利な方へ向かっていく。コンパクトデジカメやカメラ機能付きのスマホはいまよりもっと便利になるだろう。振り返らなくとも自分の写真もその時代に在るカメラやフィルムなどの“物”によって作られてきたし、時代とともに変化している。その時代に在る技術が用いられたものが写真そのものなのだ。

デジタルカメラで撮影する現場が増えたがフィルムに見えるように撮ってほしい、というリクエストがよくある。デジタルカメラだと画像にそういった加工ができ、実際にそう見えなくもない。ではデジタルで撮ったモノクロ写真はどうなのか。それも同じで画像に加工することでモノクロの画像になる。
写真を勉強している知人がデジタルで撮影した画像をモノクロにプリントアウトし写真学校で先生に見せた話を聞いた。フィルムのモノクロ写真と比べてよくないというようなことを言われたそうだ。当たり前だがデジタルカメラで撮られた画像はそもそもフィルムでもなければモノクロでもない。モノクロ写真に限らず、かつての技術によって撮られた写真と現代の写真を比べることに何の意味があるのかわからない。同じモノクロの写真でもデジタルのそれとフィルムのそれは全く違うものなのだ。先にも書いたように写真は時代とともに変化しているのだから、その時代の写真を見なければならないと思っている。

物事は基本が大切だから、常に意識している。
でも、写真はかつての作家たちがそうだったように、いましか出来ないことをやればいいと思っている。
写真に限らず、アナログ的手法がどんどん排除され、便利なものばかりが増えていくことに日々不満を持っているため長くなりました。

平成27年2月20日
マドロス陽一