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大好評『ハケンアニメ!』の スピンオフ作品「九年前のクリスマス」 特別公開中。

大好評『ハケンアニメ!』の
スピンオフ作品『九年前のクリスマス』
特別公開。
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『九年前のクリスマス』
辻村深月
「○○だけを楽しみに」という言葉は、時として軽く考えられがちである。

 仕事終わりの女子会だけを楽しみに。
 帰宅後のお風呂上がり、冷えたビール一杯だけを楽しみに。
 週末の、彼とのデートだけを楽しみに。
 好きなバンドのライブだけを楽しみに。
 あのアイドルの握手会だけを楽しみに。
 彼の出ているドラマの放映だけを楽しみに。
 昔から買っている少年漫画誌の発売だけを楽しみに。


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 ――毎週水曜日夕方六時半から放映のアニメ、『光のヨスガ』だけを楽しみに。
 過酷だったり、つらかったり、退屈だったり、疎ましかったりする日々の仕事や学校を、日常を、それだけを楽しみに乗り切る。心の中に、しがみつけるものを持つ人は幸せだ。それを「ささいな幸せ」と呼んでいいのは、当人が謙遜する時だけ。誰にもそれを「ささい」と断じる権利はない。

 その年のクリスマスイブは、水曜日だった。
 息を一つ吸うだけで、肺の中が真っ白く冷えるような、静謐な冬の道を、有科香屋子は、泣きそうな気持ちで『ヨスガ』を観ることだけを楽しみに帰宅した。
 有科香屋子、二十七歳。
 スタジオえっじという中堅のアニメ会社の制作進行。彼女はその日、大きな失敗をしたばかりだった。
 泣いても仕方ないとわかっていたし、会社でも、途中に寄ったコンビニでも自分を抑えられていたはずだったのに、いざ家が近づいてくるのが見えたら、視界の底にたまった白い靄の面積が、どんどん、どんどん膨らんでくる。家に入って玄関のドアを閉めた途端、わーっと涙が出た。
 その前の期で担当していたアニメが、人から〝空気アニメ〞と呼ばれていたことを、その日、香屋子は初めて知った。
〝空気アニメ〞とは、ただそこにある、という意味の〝空気〞。特に話題にも評判にもならないアニメが呼ばれる不名誉な称号だ。悪く言われることもないかわりに、よく言われることもない。つまりは誰からも注目されていない。ある意味では、悪く言われる方がまだマシだ。
 昼間、そのアニメをともに作った監督と同席した際に、彼が自身の口で言った。「このタイトル、空気アニメになっちゃいましたけど、ここからまだ頑張れますかね」
 元々、自虐的な言葉を使うことで有名な人ではあった。けれど、その言葉を聞いて、香屋子は耳を疑った。声もなく彼を見つめ返すと、監督は、「有科さんもそう思ってるでしょ? このアニメ、進行だけはスムーズでしたけど、有科さんも愛着はないですよね?」と続けた。
「そんなことないです」、「誰が言ってるんですか? 心外です」という言葉は、反射的に出てきた。しかし、香屋子は打ちひしがれ、激しく動揺していた。そのタイトルで、確かな手応えを感じていたかと問われたら、すぐに答えられる自信がない。数字は実際よくなかった。
「みんなです」
 顔色を変えずに、監督が続ける。
「言っているのは、アニメ業界全体と一般の視聴者。つまり、みんなです」
 それ以上、かける言葉がなかった。もちろん、フォローした。「思い込みじゃないですか」、「私はこの作品が好きですよ」。
 しかし、言いながらも、私がどう思おうともう遅いのだ、と絶望的に気づいた。自分の監督にこんなことを言わせてしまった時点で、私は、制作進行失格だ。
 好き、という言葉に嘘はない。けれど、それをもっと前から、声に出して監督に伝えておけばよかった。
 今日だって、不名誉な〝空気アニメ〞の称号を一緒になって問答無用に怒ればよかった。それができなかったのが情けなかった。数字がどうであれ、自信さえあれば胸を張ってそうできたはずなのに。
 顔を上げると、こんな時でも香屋子は時計を見上げ、まだその秒針が六時半にかかっていないのを見て、ほっとする。間に合った、と全身から吐息が出る。
 テレビをつけると、『光のヨスガ』のオープニングが始まった。
 自分の仕事であるアニメのことで今日傷ついたばかりなのに、別の、ライバルタイトルを楽しみにするなんて、どうかしていると思う。だけど、今はそのことを反省したり、自分で呆れたりするよりも何よりも、まず、大きな安堵に包まれた。
 ――私はまだ、アニメを観て喜べる。楽しめる。
 仕事で嫌なことがあっても、それが同じ業界内のことだとしても、本当におもしろいものを観ているこの束の間のひととき、香屋子は僻むことからさえも自由になれる。
 『光のヨスガ』は、最終回の一つ前の回を迎えていた。
 仕事のことで流していたはずの涙が、話に引き込まれ、画面から受ける衝撃で、別の涙へと温度を変えていく。ボロボロになる主人公たちの気持ちにそって、香屋子は歯を食いしばる。
 そして、思った。
 いつか、これを撮った人と、仕事をしたい。今度こそ万全に、誰に何を言われても揺らがない覚悟を持って、この人と、仕事がしたい。
 一緒に過ごす人も、ケーキもない有科香屋子のクリスマスイブは、コンビニで買った缶ビール一本とともに、そして、過ぎていく。


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 斎藤瞳は、高校一年生。
 その日、故郷の町の駅前で、膝上丈のサンタクロースワンピを着て、道行く人にケーキを売っていた。
「林玉堂のクリスマスケーキ、本日、最終のご案内でーす!」
 声を張り上げると、澄みきった冷たい空気に白い息が広がる。さっきから、瞳は同じ言葉を叫び続けていた。誰も足を止めてくれなくても、声を出すのは苦痛じゃない。苦痛なのは、この、サンタの衣装の方だった。
 ――てっきり、着ぐるみみたいな、すっぽりしたタイプのものだと思ったのに。
 膝を掠める風がひゅーひゅー冷たい。駅を挟んで反対側の、日が沈んだ視界の中で、こちらを見下ろすように建った団地の窓から明かりが洩れ始めている。その不規則に並ぶまばらな光を見て、きれいだなぁと、ため息が出た。
 高校生になってよかったなぁと思ったのは、中学までと違って新聞配達以外のバイトが解禁になったことだ。クリスマスのケーキ売りは、中でも時給がいい。衣装は恥ずかしいけど、仕方ない。
 なるべく知り合いに見られませんように――、と思いつつ、声を張り上げていると、「あの」と声をかけられた。「はい」と振り返ると、小学生とお母さんの二人連れが立っていた。利発そうな女の子が、「それください」と、ブッシュ・ド・ノエルを指さす。
 瞳に代金を「お願いします」と渡す時、彼女の手がビニール袋に包まれた箱を抱えているのが見えた。鮮やかなピンク色のパッケージに、大きなハートマークの入ったかわいいロゴ。長方形の大きな包みの表面には、袋から透けた『ピンキージュエル・ウィンドステッキ』の文字。
 それが今年放映になった子ども向けの魔法少女だということは瞳でも知っていた。自分が子どもの頃からタイトルを少しずつ変えて続いてきた人気アニメシリーズだ。
 クリスマスプレゼントに買ってもらったんだな、と思う。
 彼女の持った袋には、いびつに折り畳まれたクマ模様の包装紙が入っていた。おそらく、母親にもらってすぐ、家まで待ちきれずにどこかで開封した後なのだろう。
「はい。おつりです」
「ありがとう」
 女の子が笑って、それから少し、迷うような間を取った。瞳の前から動かない。どうしたんだろう? と首を傾げる瞳に、そのまま、続けた。
「がんばってね、サンタさん!」
 え、と瞬きする間に、彼女が照れくさそうに母親の方に走っていく。瞳がサンタの格好をしているからそう言ったのだということに少し遅れて気づいて、あわてて「ありがとう!」と答えると、彼女が振り返った。その顔に向けて、瞳は大声で叫ぶ。
「メリークリスマス!」
 ――この子たちに幸せなクリスマスを届ける、サンタクロースは幸せものだな、と思う。
 この子たちに魔法のステッキを届けるサンタクロース。見れば、通り過ぎるたくさんの人たちが、同じクマ柄の包装紙の包みを手に家路を急いでいる。この辺りで一番大きなおもちゃ屋さんの包装紙。中味はきっと、魔法ステッキやロボットのおもちゃといったところだろうか。
 見てますか、と彼女たちが去ってから一人、星の散る冬の空を見上げる。サンタに、呼びかける。
 あの子たちがあんなに喜んでるの、見てますか。


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 並澤和奈は、高校二年生。
 その日、一人で商店街の道を帰宅していた。母に頼まれた手羽先を買うためだ。
「ローストチキンにしようと思ったけど、考えてみたら食べきれないよね」という母の独断により、普段のおかずにもよく出る商店街の肉屋さんの手羽先を人数分、買ってこいと言われた。
 歩きながらも、和奈の心には猛烈な後悔が渦巻いていた。
 今日、クラスの何人かが集まって、学級委員の女子の家で、クリスマスパーティーをするらしい。
 和奈は誘われなかったし、そういう催し物があると人づてに聞いても「へえ、そうなんだ」と頷くくらいで気にしていなかった。だって、誘われなかったのだ。それに、普段仲良くしていない相手と急にパーティーで盛り上がれと言われても、趣味も話題も合わなくて、微妙な空気になるに決まっている。
 ――そのメンツに、なぜ、田口くんが入っているのか。
 問題は、その一点だった。
 和奈の隣の席の田口くんは、彼が教科書をよく忘れてくるせいで、物の貸し借りを通じて口を利くくらいの間柄になっていた。
 ある日、うっかり消し忘れた世界史の教科書に描いた和奈のマリー・アントワネットとフェルゼンの絵を発見して「すげえ!」と授業中にもかかわらず、叫んで、先生に叱られていた。
 驚いていたが、嫌な引き方ではなかった。
「並澤さん、すげえよ。漫画家になれるよ」と言われ、和奈はそれに「無理だよ、ああいう世界は厳しいんだよ」と答えた。
 田口くんが、他のクラスメートに、自分が描いていた絵のことを言いふらしたりしていないことにも、和奈は内心ほっとしていた。――もともと興味がなかっただけかもしれないけど。
 今日のクリスマスパーティーで、誰それが田口くんに告白するつもりらしい、という噂は、自然と聞こえてきた。明日から、田口くんはおそらく彼女持ちになる。
 後悔しているのは、彼から言われた「並澤さんも来る?」の言葉に、自分が「いい」と首を振ったことだ。
 他のみんなもたわいなく、彼の後ろで「あ、来るー?」なんて、楽しそうに聞いていた。和奈が、どれだけそれを真剣に検討するかも知らずに、ただなんとなく誘っただけ、という感じだった。
 最初から誘われてなかったし、今日も誘われると思わなかったし、驚いたし、お母さんに手羽先も買ってこいと言われていたし、咄嗟に出てしまった返事に、みんなも興味をなくしたように「あ、そう」とそれ以上は誘わなかった。
 今日のパーティーに行ったところで、所詮は何も変わらないだろう。和奈には何もできない。そもそも、田口くんのことを好きだったというわけですらない。
 それなのに、なぜ、自分がこんなに泣きそうなのかわからない。
 その時、商店街の電器屋に設置されたテレビから、『負けてたまるか!』という、力強い声優ボイスが聞こえた。
 反射的に顔を上げ、和奈は、「あちゃー」と額に手を当て、空を仰ぐ。忘れてた。今日、『ヨスガ』の日だった。
 少しくらい、帰宅が遅れても構わないだろう。お母さん、ごめん。
 心の中で母に謝り、足を止めて、テレビに向き直る。画面を観る。
 いつか、と思う。
 いつか、好きになった絵も、趣味のことも、隠さず全部話せるような、そんな人と、自分は出会えるだろうか。今日行けなかったようなクリスマスパーティーに臆せず行けるような大人に、いつの日か、なれるだろうか。
 そんな日が来るとは到底思えず、和奈はそっと、洟(はな)をすすり上げる。
 こんな日でも、『光のヨスガ』は、面白かった。電器屋に並ぶたくさんのテレビの中で、それ一つだけが輝いて、別格に明るかった。


 九年後、彼女たちは考える。

 ――ただひたすら、『運命戦線リデルライト』のことを。
 ――子どもに届ける『サウンドバック』のことを。
 ――自分の絵を必要としてくれる人のことを。

「○○だけを楽しみに」できる人は幸せだ。
 そしてまた、その楽しみと苦しみが表裏一体である人もまた、とても幸せである。彼女たちはその年から九年目のクリスマスを、今年、好きなものとともに迎える。


初出・『アンアン』1885号(2014年1月1日・8日発行合併号)