第9回 茨木のり子さんの『汲む』を再び。
フナヤマの言葉さがし
第9回
茨木のり子さんの『汲む』を再び。
3月20日発売の前号の表紙を飾ってくれた横尾香央留さんのインタビュー記事には読者の方々から、多くの反響をいただきました。可愛らしく、機知に富んだ「お直し」で知られる手芸家・横尾さんの意外な引っ込み思案、電話恐怖症、そしてひとの言葉に傷ついたときにケーキをホールごと黙々と食べる癒やしの儀式……。ああ、横尾さんってこんな人だったんだ、案外、不器用な(失礼!)生き方をしている人なんだなぁ、と驚きとともに共感してくれた方も多かったようです。
そんなお便りを読みながら思い出したのが、『自分の感受性くらい』『倚(よ)りかからず』などの詩集で知られる詩人・茨木のり子さんの『汲む――Y・Yに――』という一編です。まだ20代だったころに読んだものですが、心の中にいつもあり、ずっと励まされてきました。
「大人になるというのは/すれっからしになることだと/思い込んでいた少女の頃/立居振舞の美しい/発音の正確な/素敵な女のひとと会いました/そのひとは私の背のびを見すかしたように/なにげない話に言いました
初々しさが大切なの/人に対しても世の中に対しても/人を人とも思わなくなったとき/堕落が始るのね 堕ちてゆくのを/隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました
私はどきんとし/そして深く悟りました
大人になってもどぎまぎしたっていいんだな/ぎこちない挨拶 醜く赤くなる/失語症 なめらかでないしぐさ/子供の悪態にさえ傷ついてしまう/頼りない生牡蠣のような感受性/それらを鍛える必要は少しもなかったのだな/年老いても咲きたての薔薇 柔らかく/外にむかってひらかれるのこそ難しい/あらゆる仕事/すべてのいい仕事の核には/震える弱いアンテナが隠されている きっと……/わたくしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました/たちかえり/今もときどきその意味を/ひっそり汲むことがあるのです」(『茨木のり子詩集』(思潮社)より)
何だか、年齢ばかり重ねて成長しきれない自分への言い訳のように聞こえてしまうかもしれません。ゆとりのある、どっしりした大人の女のひと、物事にちゃんと向き合って自分なりの方法で状況を切り拓いていけるひと、そんな存在に憧れてきてはみたものの、ちょっとしたことにつまずいてへこんだり、あるいは言い過ぎてひとの気持ちに傷をつけたり。そんな格好悪いことを繰り返して月日を過ごしてきました。
でもこの詩はそんな醜さ、不安な心を懐深く抱き留めてくれます。すべてのいい仕事(狭い意味での仕事だけでなく、たぶん人の成すこと全部を示すのだと思います)の核に潜んでいる「震える弱いアンテナ」「頼りない生牡蠣のような感受性」。横尾さんがときに持て余しながらも大切に抱えているのはそんなことなのでしょうか。
「年老いても咲きたての薔薇」として「柔らかく」「外にむかってひらかれる」……簡単に実現できることではないけれど、茨木さんが残してくれた言葉がおぼつかない自分の足元を照らしてくれる。遠い憧れを指し示してくれる気がします。
さて、そろそろ次の『クウネル』の取材が始まります。またがんばらなくちゃ。茨木さんの言葉をかみしめながら、少しずつでも前へ進みたいと思います。