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第6回 非力な力に守られて


フナヤマの言葉さがし

初めまして、船山と申します。一読者として愛読してきた『クウネル』編集部で働くことになりました。かなり年のいった新人ですが、みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。当コラムでは私が『クウネル』の取材の席で聞いたり、本や雑誌、新聞で読んだりした言葉、忘れられない文章やひと言をぼちぼちと紹介していければいいな、と思っています。

 

第6回
非力な力に守られて

「私たちは無垢なものに触れていないと生きてはいけないが、それらを守っているのだろうか。私たちのほうが逆に、草木や小動物や赤ん坊や死者や詩や音楽の、非力な力に守られていると思う。」
詩人の井坂洋子さんの言葉です。

この言葉は娘が子どもを産み、初めての孫と同じ屋根の下で暮らし始めた井坂さんが、赤ちゃんに接し、日々出合う新鮮な体験の中から生まれたものです。

「顔立ちは娘夫婦に似ているとしても、別人格だ。彼はほかの赤ん坊と同じように泣き、排泄をして、猫の毛を引っぱったりしている。しきりに寝返りをうって、ハイハイの準備をしている。けれど、去年の今ごろは姿形もなく、前触れもなかったのである。」

去年には「姿形もなく、前触れもなかった」存在が、いまは大いに食べ、笑い、泣き、家族の真ん中にいるという驚き。それと同じ仕組みで、去年にはそれぞれの人生を歩んでいた人たちが、今年はもういない。

「死者のほうは、突然逝くにしろ、もう少しあとを引く。今から三十年ほど前に亡くなった祖父は、家にこもって書き仕事をする生活を長い間続けていた。亡くなってからしばらくして、同居していたA叔母が祖父の書斎の隣室で眠っていた時、祖父が顔を覗きこんで『オレの寝どこはどこかね』と訊いたそうだ。A叔母は、お父さんは違うところにいったのだから、ここでは寝られないのよといい聞かせたという。(中略)/暫時、この世に漂っている気配があって、親しい者はその俤(おもかげ)を抱きしめて生きるが、やがて死者は孤独のうちに亡くなった者たちなどと連れだち、同じ混沌の闇に吸いこまれていくのだと思う。生命は同質なのだ。」(引用は幻戯書房刊『黒猫のひたい』より)

生まれることと死ぬことはひとつの連なりで、私たちはその間で日々を送っているのに過ぎないのだ……。当たり前ではあるけれど、雑事に紛れてついつい忘れてしまいがちなことを非力な赤ちゃんや懐かしい死者たちが思い出させてくれる。
草木のざわめきや風の音、美しい音楽や詩に注意深く耳をそばだてる。そういうものたちに守られて、人の生き死にの不思議を思いながら、私たちはなんとか生きていくのかもしれません。

井坂洋子さんには最新号のクウネルの巻末エッセイを執筆していただきました。「震災から少したった五月に、突然、ぼくはこの家の子です、と玄関から入ってきたとしか思えない」初孫の凜ちゃんについて、改めて書かれた一篇です。現代詩の詩人として清新な作品を発表しながら、暮らしに根付いた温かいエッセイも書き続けてきた井坂さんの言葉に触れてみてください。