作家インタビュー 人との出会いが作品になっていく
第7回大賞受賞、瀬尾まいこさん
作家インタビュー 人との出会いが作品になっていく
第7回大賞受賞、瀬尾まいこさん
人との関係も目の前を過ぎゆく時間も、目に見えなくて捉えようがなく、だからかけがえがなくて愛おしい。そんな独特の世界観を柔らかな文体に閉じ込めた『卵の緒』で坊っちゃん文学賞を受賞し、作家デビューを果たした瀬尾まいこさん。あれから15年が経った今も、日常の中のふとした時間とそのかけがえなさを丁寧な言葉で紡ぎ、文学界に異彩を放ち続けています。
—もともと、文章を書くのが好きだったんですか?
瀬尾 うーん。どうでしょう。日記を書いていたわけでもないですし。本が好きな子どもだと自分では思っていたけれど、もっとたくさんの本を読んでいるような本好きな人はいくらでもいますし……。10代の頃は、教師になりたいと思っていたんです。教師という仕事に憧れていました。中学生が大好きで、自分自身はあまり楽しい中学時代ではなかったので、自分が先生になったら子どもたちが楽しく過ごせるような教室を作りたいなあって思っていたんです。その一方で、チョコチョコと何か書いていたような気はしますが、何を書いていたかは覚えていませんね。
—坊っちゃん文学賞に応募した「卵の緒」を書いた時のことをお聞かせください。
瀬尾 あの作品を書いたのは26歳の時ですね。当時は中学校の国語講師として働いていました。正教員になりたくて、でも毎年、教員採用試験を受けては落ちまくっていた……という頃です。当時の教員採用試験は、筆記試験だけでなく、部活動で活躍したとか何かの受賞歴があるかとか、そういった学生時代の活動なども評価に加わっていたようで、とにかく二次試験までは行くけれども、そこで毎回落ちてしまっていたんです。
そんな折に、ちょうど丹後の中学校に異動になって一人暮らしを始めたのです。1人の時間ができたけれども、特に趣味らしい趣味もないしテレビを見たいとも思わないし話す相手もいないし、特に遊びに行きたい場所があるわけでもないし……。で、何か書いてみようか、と書き始めた。なんだか、すごく消極的な感じですみません(笑)。
—最初から「坊っちゃん文学賞」に応募しようと思っていたのですか?
瀬尾 いえ。当時はその賞の存在も知らなかったんです。ただ、雑誌か新聞か何かで見かけて、書き上げた枚数も募集要件に合っていたし、タイミングも募集期間内でしたので、ちょうどよいと思って応募しました。ですから、「坊っちゃん文学賞」を意識して書いた作品ではないのです。そもそも、書き始めには、これがどんな結末になるのか、何よりも結末まで書けるのかどうかも分からずに書き始めましたから。
私が小説を書く時はいつも大体そうなのです。細かいプロットを立てて、こういう人物をこういう風に描こう、と決めてから書き始めるわけではなく、書き進めながら、主人公はこんな子なんだな、というのが見えてきて、その周囲の人々も含めて段々と動き始めていく感じ。中盤まで書いていくと、大体、ああ、この物語はこういう方向へ向かいそうだな、というのが見えてきます。
—途中で展開に苦労する、というようなことはありましたか?
瀬尾 途中、次はどうしようかな、と考えることはあっても、どうにも物語が動かない、と苦労することはありませんね。『卵の緒』も、その意味では、苦労してなんとか作り上げたという作品ではありません。書き上げてみて、自分では面白いものができあがったと思いましたけれど、自分が書きたいように書いているんですから、自分にとって面白いのは当たり前ですよね。
『坊っちゃん文学賞』の最終選考会は、ちょうど週の真ん中でしたから、勤務先の中学校の年休を取って松山へ行きました。小説を書いて文学賞に応募した、なんていうことは内緒にしていましたから、勤務先にももちろん休んだ理由は伝えていませんでした。が、大賞を取ったことで、勤務先にも確認の連絡が行ったらしく、翌日に学校へ行ったら校長先生から「こんなこと、していたんですね」って言われました(笑)。
—大賞に選ばれた時のお気持ちは?
瀬尾 嬉しかったですよ。これで、次の教員採用試験の自己PRに書けることが増えたな!って思いました。中学校では朝の10分に読書の時間があるのですが、そこで、本嫌いの生徒が私の本を読んだりしていたのも嬉しかったですね。本は嫌いでも、知り合いが書いた本だったら読んでみようという気にもなるんですね。読み終わった後で、「育生はその後どうなったの?」など、登場人物のその後を知りたがったりして。「物語の中の人なのよ」って説明したのですが、子どもって面白いですよね。
—作家として創作活動を開始した後も、中学校の先生の仕事は続けていたのですね。
瀬尾 国語の講師の仕事は続けていましたし、正教員になりたかったので。『坊っちゃん文学賞』の大賞受賞という経歴が加わった後も、また数回落ちましたが(笑)、やっと30歳の時に晴れて合格して正教員になりました。
受賞後の次の作品は、マガジンハウスから「受賞作は1冊の本にするには短いので、もう1本書いて」と言われて書き上げた『7’s blood』。その後も、いろいろな出版社からオファーを頂いて自分のペースで書き続けました。
仕事をしながら書くというスタイルが、私にはちょうど良かったのだと思います。集中力が持続しない私には、朝から晩まで1人で家にこもって書き続けるようなことはできないですし、そもそも私の小説は、自分がいろいろな人たちと出会った体験を通して生まれてきたものばかりです。教員として出会ったたくさんの子どもたち、保護者たち、そして同僚の職員たち。周囲に人がいるからこそ、作品が書けるのだと思っています。ですから、作家1本でやっていこうとは思わなかったですし、そういう考えは今でもないですね。
—その後は、どのような形で執筆を継続していかれたのでしょう?
瀬尾 35歳の時に身体を壊して退職しまして。当時、もしかしたら子どもを生むのは無理かもしれないと考えて、必死に2年間勉強して保育士免許を取得しました。自分が生むのは無理でも、ちびっ子たちと関われるような仕事がしたいって考えたんです。当時は執筆を一時期中断して、保育士免許のための勉強に集中していました。資格を取得後、結婚して引っ越しして、そろそろ保育士登録をしようかと思っていた頃に思いがけずに妊娠しまして。
今は2歳になる娘を育てながら小説を書いています。中学校の教師をしていた時代には、それくらいの年代の子どもたちが出て来る物語が多かったですし、今書いている話は小さな子どもの物語。やっぱり周りにいる人の存在が私に作品を書かせてくれるのだと思います。
今は、娘の週2〜3回のプレ幼稚園に送り出した後が私の執筆時間です。やっぱり娘がいる時には娘との時間を優先させたいですし、担当の編集者の方たちがみなさんいい人ばかりで「小説はいつでも書けるけれど、子どもが2歳なのは今しかないから、それを大切にしなさい」と言ってくださる。それは本当にありがたいですね。
—瀬尾さんの作風は、思春期の子どもであれ誰であれ、存在への優しいまなざしをいつも感じます。作品を読んで救われるような思いになる読者も少なくないと思いますが、それは意図していることでしょうか?
瀬尾 救いたいなんておこがましいことは考えていませんし、こういうことを伝えたい、というような理屈があるわけでもありません。ただ、書きたいものを私が書きたいように書いているだけで、それを読む方がどう読むのも自由だと思っています。
でも、私は、暗い感情や悲しい出来事を書くよりかは、読んだ人がちょっとでもいい気持ちになれるような作品を書きたい。特に、何かと難しい年頃のように思われがちな中学生というのは、とっても素敵な存在なんだということを、声を大にして言いたいですね。
これから先も、子育てが一段落したら、また何か(仕事など)したくなるかもしれませんね。取材して調べて書くということが得意ではない私は、やはり、自分自身がいろいろと体験したことを書いていきたいのです。
そして、こういうインタビューを受けることが苦手な私は、人見知りが激しい人間だと自分で思っていたのですが、でも、どうやら人と話をするのは好きみたいです。人と関わるのが好き、人と知り合って言葉を交わすことが好きなんだと思います。これ以上に面白いことって、ないんじゃないでしょうか。だから、人と人が関わっていく様を、これからも書き続けていきたいです。