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書き下ろし小説 ほろほろ、卵焼き (第2回)
桐 りんご

坊っちゃん文学賞

書き下ろし小説 ほろほろ、卵焼き (第2回)
桐 りんご

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新しい青春文学を発掘する『坊っちゃん文学賞』。第13回の大賞受賞作品『キラキラハシル』、作者の桐りんごさんの書きおろし小説『ほろほろ、卵焼き』の公開です。

 

ほろほろ、卵焼き 第2回

 
 小学校五年生の夏、おばぁが入院した。その頃になると、所属していたバスケットボール部の練習に時間を割かれ、おばぁとのデートはめっきりなくなっていった。入院したと母から聞いた時は驚いたが、
 「おばぁは風邪をこじらせているみたい。なかなか良くならないから、おじさん達が大事を取って入院させたみたいよ」
 と聞き、悪い病気ではないようだったので安心した。
 休みの日に、家族でおばぁのお見舞いに行った。病院の中に入ると、ひんやりとして病院特有の消毒液の鼻を突くような臭いがした。
 (やっぱり病院って苦手だ。毎日こんな所でおばぁは過ごしているんだな…)
 おばぁの病室に向かう途中、私はそんなことを思っていた。一方で、久しぶりにおばぁに会う私は、少し緊張していた。
 「母さん、調子はどうだい?」
 そう言って、まず父がおばぁの居る病室へ入っていった。
 「まぁ!雪ちゃん!来てくれたのね!」
 と言う嬉しそうなおばぁの声が聞こえてくる。少し遅れて私も病室へ入った。
 「…おばぁ…大丈夫?」
 久しぶりに会うのでどう対応して良いか分からず、おばぁの顔を直視できないでいた。
 「雪ちゃん!暫く会わない間に大きくなったわね~!おばぁが退院したら、また前みたいにお出かけしましょうね!」
 「うん…」
 素っ気ない態度の私に対して、おばぁは昔と変わらずやさしく明るく接してくれた。久しぶりに会ったおばぁは、白髪が増え、前より幾分痩せて小さくなった感じがした。
 「もう帰るよ。母さん、また来るから」
 十五分程おばぁと過ごした後、父がこう切り出した。
 「そう…みんな忙しいから仕方ないわよね。雪ちゃん、また来てちょうだいね!」
 と、おばぁは眉毛を八の字にして残念そうに呟いた。おばぁに「雪ちゃん」と呼ばれる度に、私は何故か居心地の悪さを感じていた。以前はそんなことなかったのに…。病院を後にし車に乗り込む時、ふとおばぁの居る病室の方を見た。そこにおばぁの姿はなかったけれど、小さい箱が整然と並べられていて、どれも変わり映えのしない無機質な一室におばぁは居るのだ、と思うと悲しいような寂しいような気持ちに襲われた。
 「やっぱり姉ちゃんは贔屓されてる!」
 帰りの車の中、妹と弟がぶうぶう文句を言っていた。帰り際に渡されたお小遣いの額が、違いすぎることに対する不満だった。私だけ千円で二人は百円だったからだ。
 「千円は多すぎるから、一旦お母さんに預けなさい。はい、ひとまずこれと交換ね」
 千円は母に没収され、代わりに二百円を受け取らされた。おばぁの気持ちを裏切ったような気がして、心の中で届くはずもない謝罪を繰り返していた。
 
 そして私は日常に戻り、時間は刻々と確実に流れて行った。六年生になった私は、部活動と学校、友達との付き合いが生活の中心となっていた。部活動が休みの日には友達と遊びに出かけることが多くなり、段々おばぁを見舞うこともなくなった。日々の生活をこなすことに精一杯で、いつの間にかおばぁのことを考えなくなっていた。
 ある日、おばぁの入院する病院へ父に半ば強引に連れ出された。
 「お前はあんなにおばぁにお世話になったっていうのに、全然顔を見せてあげないで、全く。おばぁがどんなに寂しがっているか、お前は分からないのか?」
 病院へと向かう車の中、父は私を叱った。父の言葉はがつんと私の心に衝撃を与えた。確かに、私は自分のことばかりでおばぁの気持ちなんか考えていなかった。おばぁはいつだって私のことを想ってくれていたのに…。そう思うと涙が込み上げてきたが、私はそれを必死に堪えた。
 久しぶりに訪れた病院は、陰鬱な感じがして重苦しくやはり苦手だったが、おばぁのことを考えるとそんなことはどうでもよく思えた。一刻も早くおばぁに会いたかった。逸る気持ちを抑えて病室に入り、おばぁの姿を見て驚愕した。以前よりも更に痩せ細り、髪の毛は真っ白で、顔には皺や染みが増えていた。
 「母さん、元気かい?今日は雪も来たよ」
 父は大きな声でゆっくりと、おばぁの耳元でそう言った。おばぁは耳も遠くなってしまったのだろうか?虚ろな目でこちらに視線を向けたおばぁの言葉に、私は耳を疑った。
 「…あんた、誰だい?」
 おばぁはどうやら私のことが分からないようだった。そのことが信じられず、
 「誰だいって…おばぁ、冗談だよね?私だよ!雪!おばぁの孫の雪だよ!」
 と懸命に訴えた。それでもおばぁは、私のことが分からなかった。その日は最後まで私のことを思い出せなかった。おばぁは虚ろな目をしたまま、どこか遠くを見据えていた。おばぁの目には私なんて映っていなかった。帰りの車中、
 「…おばぁ、あまり状態が良くないんだ…だから、おばぁが一番可愛がっていた雪が、おばぁの力になってくれたらなと思ったんだよ。まさか雪のことが分からないなんてな…雪も辛いとは思うけど、おばぁの為に一緒に出来る限りのことはしてやろう。な!」
 父は後部座席で俯いていた私に、バックミラー越しにそう言った。
 「…うん…そうだね…」
 おばぁに「あんた、誰だい?」と言われた時から、思考が停止してしまった私は適当に相槌を打つのが精一杯だった。外に目を遣ると、街を行き交う人々は笑顔を拵え何だか幸せそうに見えた。
 (おばぁ…本当にもう私のこと忘れちゃったの?きっと私がおばぁのこと、ぞんざいに扱ったからだよね…ごめんね…)
 溢れ出す後悔の念と悲しみに堪えきれず、私は嗚咽を漏らした。父は私に何も言わず、静かに運転に意識を向けてくれていた。そんな父の気遣いが、却って今の私にはひどく応えた。
 
 それから何度か父に誘われ、おばぁの見舞いに行った。しかし、おばぁは私を孫として決して認めてはくれなかった。
 「雪ちゃんはこんなに大きくないの!」
 「雪ちゃんはもっとお利口さんで、素直な良い子よ。だけど、あんたは全然違う!」
 「本物の雪ちゃんはどこにいるの?『私が雪だ』って、どうしてそんな嘘を付くのよ!」
 とおばぁは散々私を罵った。初めの頃は、
 (今まで私がおばぁに辛い思いをさせてきたのだから、これ位でへこんでいたら駄目だ!頑張らなきゃ!)
 と自分を奮い立たせていた。けれど…大好きなおばぁに何度も否定され、「嘘つき」と言われ、汚い物でも見るような視線を寄越されると、日毎に私の心はぼろぼろになっていった。父も傍目で見ていて、私を不憫に思ったのかもしれない。それ以来、積極的に私をおばぁの見舞いに誘わなくなった。私はそれに甘んじ、段々おばぁの所へ足を運ばなくなってしまった。「大好きなおばぁの力になる!」と誓ったはずなのに、私は逃げ出してしまった。今のおばぁは私が知っているおばぁとは別人だった。大好きだったくしゃっとなる笑顔も、二度と見せてはくれなかった。もうこれ以上大好きなおばぁに傷つけられたくなかった。これ以上罵倒され続けたら、おばぁを嫌いになってしまいそうな自分が怖かった。必死に繋ぎ止めていたおばぁとの絆は、ばらばらと崩壊する寸前だった。
 
 おばぁを見舞わなくなって、私はその罪悪感から目を背けるように勉強や部活動、友達付き合いなどにたっぷりと時間を費やした。そうしているとおばぁのことを考えないで済み、自分の弱さや脆さといったものと向かい合う必要がなかった。むしろ充実した日々を過ごせているような気にまでなっていた。
 そうして時は過ぎ、私が中学三年生の冬、寒い夜におばぁは逝ってしまった。
 自分でも不思議な程、頭は冴え冷静に物事を見られた。おばぁのお葬式の時、涙は一滴も出てこなかった。私以外の家族はみんな泣いていた。その時初めて、私は父が泣いている姿を見た。父は大粒の涙を流し、嗚咽を漏らしていた。遺影には、私の大好きなおばぁの顔があり、それは顔がくしゃっとなった笑顔であった。その大好きな笑顔を、私は久しぶりに見た気がした。暫くしても、おばぁがこの世界から居なくなってしまったという実感は湧いてこなかった。未だにおばぁはあの苦手な病院の一室で、虚ろな視線を虚空に浮かべてぽつんと窓の外を見ているのではないかと思った。もう二度とおばぁに会えないことが分かっていても、何故か悲しくなかった。自分がこんなに薄情者だとは思わなかった。私の中の悲しみという感情は、どこかにすっぽりと抜け落ちてしまったようだ。そうして、私はまた日々を塗り潰していった。

  

 

『坊っちゃん文学賞』
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