第54回 マドロス陽一の写真便りその4
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第54回
マドロス陽一の写真便りその4
先日、初めて写真コンテストの審査に参加した。
まさか他者の写真にもの申すことになるとは、決して長く特別でない僕の写真体験にその資格があるとも思えなかったが、写真コンテストの趣旨が日本の離島を撮った作品ということで興味を抱き、参加させていただいた。
それぞれの作品は、これまで16年ほど日本の島々を撮り続けている自分にとって興味深いものだった。知らなかった奇祭の写真、旅の記録写真、定住者の日常の写真など、写真には個人から島に向けられた様々な“まなざし”があった。
審査をするということは多くの作品の中から、コンテストの趣旨をなぞりつつ、自分のよいと思った作品を決められた数だけ選びだすものだと思っていたし、結果的にそうなるのだが、いざ審査となると膨大にファイリングされた作品群を前に「こんな行事があるんだ」「この景色、きれい」など、どうしても個人的な興味ばかりが先に立ってしまう。しかし、そのワクワクを忘れずに一枚一枚を丁寧に見ていった。
デジカメやスマホの進化、撮った写真を瞬時に加工できるアプリ、それらを駆使しSNSで頻繁にやりとりをしている昨今では、誰もが手軽にカメラを使いこなし、撮ったもの全てが意味を持つ写真として解釈される“何でもあり”の時代。今回の応募作品も同様、どの島のどの写真にも撮った人にとって何かしらの意味があり、思いの込められた作品たちだった。
結果的に自分が票を投じた作品は、かつて祖父の暮らしていた島を撮影者が再訪し、そこで撮影したおじいちゃんのポートレイトや、全島で生徒6人だけの下校風景だった。それらは、かわいいと思わず頬の緩む動物写真でも、まるでその場所にいるような、もしくは訪れてみたいと感じるクールな風景写真でも、日常の営みをとらえた心の和むスナップでもなかった。撮った人の「どうしてそれを写真にしなければならなかったのか?」という自身への問いかけと、そのことに写真で答えようとする姿勢が伝わってくる作品に魅力を感じた。
そのような写真は特別に美しく見せようと飾ることもなくひっそりとしていた。
訪れたことのない美しい場所、見たはずもない行事や誰かの特別な暮らし、決定的瞬間ですら、撮られるべくして撮られた写真は記号となり情報としてTwitterやFacebookなどインターネット上で誰もが視覚的に共有できるようになった。その情報のやりとりから逸脱した「どうして写真にしなければならなかったのか?」。そのことに答えようとしている写真に惹かれるし、情報をも伝えるカメラマンとしては忘れてはならないことだと、胸に刻んだのだった。偉そうにすみませんでした!
平成26年3月20日
マドロス陽一