ブスの瞳に恋してる♥ 第133回「イクメンに違和感」
2015年6月22日に笑福を授かり、僕は「父勉」と題して、仕事を減らして育児に向き合う生活を続けて、気が付くと8カ月が経ちました。最初の頃は肩に力が入りすぎていた気がします。そりゃそうですよね。家に家族が一人増えて生活がまったく変わるんですから。
だけど、今は笑福と二人で留守番している時間も、気を抜くことは出来ませんが、慣れてきたと言える自分がいます。
取材なども受けることもあるのですが、取材が一個いいのは、自分の考えを整理することが出来るんです。いくつかの取材を受けて、今、思うことは、やはり「イクメン」という言葉が嫌いだということです。
僕は「言葉」ってすごいなと思っていて、例えば「イケメン」って言葉がありますが、あの言葉が流行るまでは、女性がみんなの前でいい男のことを語ることに照れがあったはずなんですね。だけど、イケメンという言葉が出来たことにより、会社内でも「あの子ってイケメンだよね」とか言えるようになった。そう考えると、言葉ってすごいし、逆に怖い。
イクメンという言葉が出来て、取材でもたまに「イクメンですね」とか言われると、なんかずっと違和感があったんです。「ありがとうございます」とか言うけど、心に引っかかったものがある。「イクメン」というのは、「育児をする男性をすごい、素敵だ」という場所に置いている。上の位置に置くのは悪くはないと思うのですが、なんか結構上の位置に置いていて、それで「イケメン」と引っ掛けられているような、その言葉が気持ち悪く感じる。
ある日、僕のブログにある読者がコメントをくれました。その読者の御爺ちゃんが言っていたと。「育児にちゃんと向き合う男性のことをイクメンというんじゃなくて、父親というんだよ」と。それを読んで、なんか背骨に電気が走った気がしました。そうだ。それだと。
僕が探し続けていた答え。育児に向き合う男性を父親。僕が育休という言葉を使わずに、父勉休業と名付けた理由もそこにあって。子供が生まれた瞬間に、女性は母親になれる気がする。母と子供はお腹の中を通じて10カ月近く一緒にいて、すでにそこから育てている。だけど男性は残念ながら、妊娠中、子供にしてあげられることはない。だからこそ生まれた瞬間に父親ではなく、父親になっていくためのスタート地点に立つという感覚だった。だから父勉なんだと思っていた。
そしてもう一つ、育児や家のことを「手伝う」という言葉もだんだん違和感を感じていた。
ある時、思った。「手伝うのではなく、シェアするということが大切なんじゃないか」と。子供を授かると、生活の全てがそこに向かっていく。そこに自分たちの食事や掃除、洗濯、やらなきゃならないことが沢山ある。だったら妻の気持ちを楽にするために、自分が出来ることを探して、それをシェアすることが大切なんだと思えました。「手伝う」って言葉だと、女性がやることが前提としての行動になる。だけど妻と僕の子供だ。だからこそ、「シェア」って言葉が大切なんじゃないかと思えた。
子供が生まれて、まず自分が出来ることは何かと探した時に、それが毎日の料理作りでした。これまた取材でよく聞かれるんです。「オムツ替えたり、赤ちゃんの面倒見てるんですか?」と。笑顔で「そうですね」とは言いますが、心の中で「なんてアホな質問するやつなんだ」と思ってる自分がいる。そりゃそうだろって。仕事減らして家にいるんだから、それでオムツの交換やってなかったら、何のために仕事減らしてんだよと。
そこでまた思う。イクメンという言葉の違和感の理由。子供に向き合うことだけが育児じゃないのに、お母さんたちは子供と向き合いながら家のことも色々とやるから大変なのに、子供に向き合うことだけを育児ととらえていて、イクメンって言葉を、子供の面倒見てる瞬間だけ切り取ってる感じが気持ち悪いんだと。
だからイクメンという言葉が世に出れば出るほど、僕は「もっと父親になりたい」と気持ちを固めている自分がいます。
そんな中。この春、父が大きな病気をしました。人生で初めて体にメスを入れました。母のあんなに心配した声も初めて聞きました。
4月。桜が咲き始めた都内を車で出発しました。中学生の頃に聞いていた音楽を聞いたりして、あの頃の記憶を思い出したりして。千葉の南房総の病院にお見舞いに行きました。
父は手術2日後。8時間に及ぶ手術を受けた父は声をあまり出すことは出来ませんでした。その父の病室から見えた桜。そこで本当に思いました。「父はあと何回桜を見ることが出来るのだろう」と。
そんな気持ちになったのが初めてでした。もちろん一回でも多くの桜を見て生きてほしいと思う。だけど大切なのは、父は、この病気を通して、父があと何回桜を見ることが出来るのか? という今まで考えもしなかったことを感じさせてくれた。教えてくれたのだ。
当然だが父は死ぬまで父であり、その生きざまと背中で父親ということを僕に教えてくれているのだと、気づけました。
お父さん、ありがとう。これからも沢山、父親というものを教えてください。