From Editors No. 830 フロム エディターズ
From Editors 1
心を満たす星野道夫の物語。
星野道夫は一般的にはアラスカをフィールドにした動物写真家として知られていますが、いま新しく星野に出会い、影響を受けているという人は星野道夫の文章から、多くは『旅をする木』という1冊のエッセイ集がきっかけとなっているかと思います。その中のいくつかの文章は、遠く離れたアラスカの季節、自然、そこで生きる人々について、まるで友人から送られてきた手紙を読むかのような書簡形式で書かれています。あたかもその場にいるかのように感じさせてくれる瑞々しい文章、心にスッとしみ込むような素直な言葉。例えばこんな一節、
人間の気持ちとは可笑しいものですね。どうしようもなく些細な日常に左右されている一方で、風の感触や初夏の気配で、こんなにも豊かになれるのですから。人の心は、深くて、そして不思議なほど浅いのだと思います。きっと、その浅さで、人は生きてゆけるのでしょう。(『旅をする木』文藝春秋)
心の浅さによって人は生きてゆける。この一節を読んでも星野文学の優しさが伝わってくると思います。星野道夫にとってアラスカはとても重要な土地ですが、読者にとってはアラスカに興味があるかないかはあまり重要ではない。私もまったくなかったし(正しくはアラスカのことを思うきっかけがなかったのですが)、そこがどこであるかは一旦置いておき、遠く知らない国を舞台にした心温まる物語が詰まっている、と思って頂くのが良いかと思います。自然や動物の物語も良いのですが、私はそこに登場する人間たちに魅了されました(アラスカの街や原野に住む、実在する人々なのですが)。みな個性的で、いくつもの物語の中に繰り返し出てくるのですが、まるで現実的じゃないというか、日常の私たちの暮らし、そしてこれから過ごす生涯という単位で見ても、交わることのないであろう人々の、想像すらできない生き方、価値観がそこに描かれています。
今年は星野道夫が亡くなって20年目の節目にあたり、8月24日から松屋銀座を皮切りに全国巡回写真展がスタートします。今号の「こんにちは、星野道夫」という特集タイトルはこの号を手伝って頂いた小説家の松家仁之さんと打ち合わせした際に出てきた言葉です。文字通り、没後20年目を迎えたこの年にあらためて星野道夫に出会ってもらいたいという気持ちでつけました。この号を作った1ヵ月半はほとんど自宅と編集部の往復で時間があれば著作を読む日々でしたが、こうして編集作業を終えたいま感じるのは、まるで長い旅を終えたときのような心の充足です。クーラーの効いた涼しい部屋で極北の物語に心を浸してみてください。きっと実際の旅に勝るとも劣らない、素晴らしい旅ができることと思います。
From Editors 2
今だからこそ知りたい
星野道夫の世界。
星野道夫さんは生前、自分が撮影し、文章にしたアラスカの風景が、誰かを励ましたり、勇気づけたりできるものになればうれしい、というようなことをおっしゃっていたそうです。
私が星野道夫さんの本に出会ったのは1993年、中学1年生でした。私の住む町は大阪と神戸の間にある工場地帯。光化学スモッグ警報がバンバン出て、校庭で遊ぶことさえままならないところでした。カリブーが駆け抜ける美しい原野がこの世にあるなんて、それはほとんど架空の世界の話でした。
大学卒業後、超就職難の中拾われたテレビ製作会社に野生動物のドキュメンタリーを撮影するディレクターがいて、彼女が作った「アラスカ/カリブー大移動」という番組を見せてもらいました。架空の世界はにわかに現実味を帯びてきて、私もまた野生を取材する者としてフィールドに入る道を選んだのでした。その後、手がける媒体が映像から活字に変わっても、野生に対する憧れは変わらず、めぐりめぐって今回の星野特集に関わることとなりました。思春期の頃、星野さんが見せてくれたアラスカの風景は、自分を励ますにとどまらず、生きる道を決断させ、行動する勇気をくれたものだったと改めて感じます。
今回「私の中の星野道夫」というコーナーで、各界でご活躍の方々にお話を伺いました。研究者、漫画家、彫刻家、山伏…。活動はさまざまですが、どの方も人生のある一地点で星野さんの描いたアラスカの風景に出会い、驚き、共感し、学び、自分なりの一節や一枚の写真を大切に持ち続けて、生きてこられた方々でした。遠く離れた、一生足を運ぶことのないかもしれない土地の風景が、これだけ多くの人の人生を支えてきたのはどうしてだろう。その答えはまだはっきりとはわかりません。ただ今は、多くの人、とくにこれから先を生きる若い世代の方々に星野さんの世界に触れてもらえたらと思います。今回の特集は星野さんの世界のほんの一部ですが、自分を支え、歩く道を照らし続けてくれるような風景や言葉を見つけてもらえたら、とてもうれしく思います。